仮に、魅力化が達成できず、島前高校が廃校となった場合の地域未来予想図が描かれています。
なりゆきの未来
本土行の最後のフェリーが動き出した。
この島と一緒に死ぬといってきかない老人だけが島に残った。
錆の浮いた港湾施設が遠ざかる。岸壁に書かれた「ござらっしゃい」の文字がむなしく波に洗われている。永訣を告げる最後の汽笛が、湾内に響き渡った。丘の上には、ボロボロになった旧島前高校の校舎が、悲しそうに佇んでいた。
この島前地域に襲い掛かってきた、過疎、少子高齢化に伴う地域の衰退、そして高校の存続の危機、かつてこの状況に抗い、立ち向かった人々もいた。
地域と協働した特色ある授業、公立塾の設置、島外からの生徒募集など、多くの抵抗や困難がある中で打てる手は打った。高校魅力化にむけた様々な取り組みは一時的に脚光を浴び、高校は復活したかのように見えた。しかし、永くは続かなかった。
生徒増と学級増により「危機が去った」と安心したことで、高校魅力化に向けた地域の情熱は消えていった。頑張っていた教職員や関係者も移動や退職などで移り変わっていき、勢いは失われていった。島外から入ってくる生徒は次第に減り島前3町村の中学生の数の減少と相まって、20XX年秋、島根県は島前高校の学級減を発表。これにより島前高校の命運は尽きた。魅力化の流れは完全に終わり、衰退化に向けた逆行が一気に始まった。学級数が2学級から1学級に減っていく事で、教職員数は段階的に減り、難関大学への進学は困難となり、ヒトツナギ、軟式野球、バスケ、バレー、レスリングなどの部活動の休部も続き、島前高校への志願者は更に拍車をかけて減っていった。重なる赤字により公立塾や寮も閉鎖、為す術もないまま島前高校は隠岐高校の分校となり、その数年後廃校が決まった。
島前高校が廃校になった後、島前地域の子供連れのUターンは途絶え、逆に子供のいる家族世帯の島外流出に歯止めがかからなくなっていった。知夫村では、子どもが生まれない年が何年も続き小中学校は休校になり、高齢化率は70%を超えていった。海士町は若いUIターン者の流出が続き、2校あった小学校は、統廃合され、第3セクターも潰れていった。西ノ島町では、漁業や畜産業の担い手が途絶え、子どもや若者の減少により精霊船(シャーラ船)も十方拝礼(しゅうはいら)も消えていった。赤字が続いた隠岐汽船は寄港地の集約化とダイヤの効率化を図り、隠岐で一港、1日1便、フェリー1隻体制に移行していった。
これにより島前の観光業はさらに衰退していった。こうした状況において、島前に住みたいという医者はいなくなり、島後や本土から医者が定期的に通ってくる体制に変わり、住民の医療に対する不安は高まるようになった。3町村ともに財政状況が悪化し行き詰っていった結果、隠岐の島町との合併を決断。編入合併後、住民への福祉や医療、行政サービスは低下し、人口の流出は一層激しくなった。「最後まで島に残りたい」と言っていた高齢者たちも診療所や商店も閉まり、廃墟と化した集落の中で話し相手もいなくなっていく中、島に残ることさえ厳しくなっていった。そして、ついに数人だけを残して苦渋の集団離島が始まった。
こうして、数千年つづいてきたこの島前の歴史と文化は、22世紀を迎えることなく幕を下ろすことになった。その後、島前近海では外国漁船の違法操業が繰り返されるようになり、荒れ果てた集落には不審な人影が見えるようになったという。
多くの過疎地域と高校に希望を与えていた島前高校の失墜により、全国の高校の統廃合は一気に加速。ほとんどの過疎地域から高校が消え、子どもや若者が消え、希望や活力が消え、国土の大半を占める地方は疲弊し、日本の少子高齢化と人口減少は加速度的に進んでいった。
これは一つの未来。
手綱を緩めるとまっしぐらに向かっていくであろう未来の姿である。
このなりゆきの未来を回避し、意志ある未来をたぐり寄せる為にも、魅力化プロジェクトは更なるビジョンを掲げ、取り組みを継続していく必要がある。と締めくくっています。